第十五話 影と名前
むとのはふと、瀬木を振り返った。
「ところで、瀬木先輩」
「何?」
「さっきの何か、名前のようなもの――」
瀬木は言った。
彼女を呼んだ。
『聖清楚』と。
「あれは一体、何ですか?」
「ああ、まあ称号みたいなものだよ。ここ最近使われる二つ名みたいなものさ」
瀬木は白衣をたたみ、部屋の奥にある椅子へとかけてカバンを持ち上げた。
むとのもそれに倣って、少ない手荷物を手に持つ。
「誰か名づけ屋がいるんだろうね」
「名づけ屋……」
「称号を授ける人」
部屋の電気を消す。
「おれなんかは知らない間に『除去教授』って呼ばれてて、それがいつの間にか『除教授』に省略されて、さ。まあ人からなんて呼ばれようと気にしないけどね」
二人が研究室を出て、鍵を閉められた部屋は空になる。
本の山も、デュエル・スペースも、空っぽになった。
「それで、なんか面白そうだからおれも考えてみた」
「……」
「日野辺さんに、『聖清楚』ってね。他に誰も知らないだろうけど」
「先輩が」
「そう、おれが。別にいいんじゃない、もう一個名前があったってさ」
むとのは少しうつむき気味になって表情を読めなくした。
もう一つの名前。
二つの名前。
二つの――
聖なる清楚。
日野辺――むとの。
「じゃ、帰ろうか」
「……はい」
廊下に二人分の足音が響き始めた。
同時刻。
某国某所。
とはいえやはり日本なのだが。
「もしもし……ああ、俺ですよ」
彼は薄暗闇の中で通信していた。
影の中で、影に紛れるように。
影のように。
「はい? ……はあ。あ、いえ。今日はその、やめました。なんか変な女がいて」
電話口の向こうから激しい怒鳴り声がした。
彼は思わず顔をしかめ、見えない相手に弁解する。
「そんなこと言われ……その、要はちゃんと機能するかどうかさえ確認できればいいんでしょう? 奪った金は過剰収入なんでしょう? だったらいいじゃないですか、一応あの暗黒恐獣は実体化しましたよ?」
会話が冷めていく。
影の中で彼の言葉が静かに続く。
「ええ。はい。はい。じゃあ一応もう一回使ってみればいいんでしょう? 分かりましたよ。それじゃ」
電話を切る彼の口は少しにやりとしていた。
「――本当に、都合のいい話だ」
影の中、影のように、彼はゆらりと――
「おい」
声。
声を、かけられた。
「?」
声?
声を、かけられた?
誰に?
誰だ?
彼は振り返る。
「――ッ!?」
もう夜の帳。
薄闇はいつしか背景になっていた。
そんな中で月が大きく輝いていて。
星を従えるようにひどく発光して。
そして、その下で。
その真下にいた。
すぐ目の前にいた。
背景の手前。
彼の一歩後ろ。
「あ……くっ」
たまらず、彼は数歩飛びのいて距離をとる。
苦痛の面持ちで、睨みながら。
「おい、『おい』って言っただけでそこまで驚くなよな」
「な、何だ、何だ、お前――」
「オレ?」
その人物はゆらりと左手を伸ばした。
人差し指を突き出して彼に向ける。
突き刺すように。
突き殺すように。
大仰に、大袈裟に、月明かりの下で堂々と、指差す。
「オレなんかよりアンタ」
「あ?」
「こんなとこで、何してんのさ」
はっと――彼は気付いた。
こいつはいつからそこにいた?
いつから後ろにいた?
まさか。
闇に紛れていた自分のさらに後ろに。
影に隠れていた自分のさらに背後に。
いつから潜んでいた?
まさか、電話の内容を聞かれた?
「あ――」
「ねえ、答えてよ」
それは。
それは凍りつくように、透き通った声と――眼だった。
「う――」
会話を聞かれたとしたら。
「あ――」
それは非常にまずいことだった。
「ああ――」
何故なら、
「あ、ああ――」
そこには、到底知りえないものがあるから。
「あ――くそっ!」
影の中で、それを伝うように走り出す。
わき目もふらず、一目散に、逃げ出す。
「おい……」
遠ざかっていく足音、一人分。
走り去っていくその男は、すぐにいなくなる。
月光の下、ただ一人だけが残った。
「あーあ」その人物は残念そうに言った。「逃げちゃったよ」
月が光る。
表情が照らされて、誰もいない場所で煌々としている。
それはどこまでも透明。
無垢のように、純粋のように。
冷めた表情。
否、凍りついたような――笑顔。
「どうしようかな」
言った。
「で」
「で?」
「お前はいつまでくっついてくる気だ」
ファミリーレストランで夕食を摂ろうとした竜也に、ルシナが同行していた。
夕方時で、店内にはかなり人が多い。
種々の香りと、人の声。
その中に紛れ込むように、要素の一つになっている二人。
「いつまでって言われましてもねえ」
ルシナはテーブルに両肘を置いて手を組み、そこに顔を乗せて上目遣いに竜也を見る。
「死ぬまで?」
「そうか、死ね」
「ひどっ」
竜也はそれを無視して、冷水を一口飲んだ。
氷がからん、と鳴るのをルシナが傍観している。
店内には大勢の人。
大勢の声。
料理。
「ファミレスにこうして来るのも久し振りですね」
「知るか」
「あ、もちろん私が、という意味で、木本君と二人で来るのが久々、ってことじゃないですからね」
「知るか」
また冷水をすする。
冷たい水が喉の奥を通過していく。
「なんか」ルシナの甘い声。「こうしてると恋人みたいですよね、私たち」
竜也がグラスをテーブルにたたきつけた。
割れこそしなかったが、ひどく大きな音がする。
「うわひ」
大仰に飛びのく仕草をしてみせるルシナ。
「あれれ、いいんですか? またお昼みたく悪口言われても――」
しかし昼間と違い、物音で溢れる店内にその音を気にする人間はいなかった。
「ちぇ」
「ちぇ、じゃねえ」
「ちぇえー」
「伸ばすな」
「可愛いじゃないですか」
「馬鹿かお前」
やがて料理が運ばれてくる。
「お待たせいたしました」エプロン姿の女性が、お盆に皿をいくつか乗せてやって来た。
「リブステーキの方」
「あ、私です」
ルシナが挙手し、中腰に立ち上がってそれを受け取った。
「ターメリックライスの方」
「それも私です」
最度、手を伸ばす。
「コーンクリームスープの方」
「これもです」
再三、手を伸ばす。
「アイスティラミスの方」
「私のですね」
四品目。
料理が、テーブル上、ルシナの領域に入りきらなくなってきていた。
「フォッカチオの方」
すっ、と。
竜也が黙って手を伸ばし、それを受け取る。
「ごゆっくりどうぞ」
笑顔と伝票を残して店員が去っていった。
二人、そしてもうもうと湯気の立ち上る料理二品。
「……」
「……」
「……」
「……何だよ」
「木本君ってもしかして貧乏なんですか?」
昼間は学食最安値の素うどん一杯。
今はメニュー最安値のパン一つ。
意図して値段を抑えている――ように、彼女は感じていた。
「……違うな」
「あ、そうなんですか。じゃあ何で」
「いただきます」
勝手にパンをつかんで、ちぎって口に入れ始める竜也。
会話を切り落とす。
「……」
やがてルシナも仕方なく手を合わせ、
「いただきますです」
目の前に広がる料理に手をつけ始める。
遊部ルシナ、支出合計、1576円。
木本竜也、支出合計、109円。
その差、埋めがたし。
なんとなくルシナは、自分たちが恋人に見えようがない気がした。