第二十一話 黒と覚悟
倒壊寸前、そんな言葉が似合うアパートの前に、1台の車が止まっていた。
車種はセダン。
色は黒。
高級車の代表格が、崩壊しかけた小屋の前に止まっていた。
「やあリューヤ。こんな真っ昼間から人を呼び出すとはいい度胸じゃないかきみ。おれが今何をしてたか知ってるかい? それを踏まえた上でおれを呼んだのかい? 違うとは思うけどね。つまり大した用事じゃないのにおれを呼び出したってんなら腹立つわけよ、本当。いやね、証拠とか言われると行くしかなくなるじゃん? 選択肢なくなるじゃん? だけどリューヤ、電話で詳しいこと言わなかったじゃん? つまりなんか如何わしいなーと思わなくもないわけよ。それにリューヤ、お前、聞いたとこによると午前中大学行ってないみたいじゃないかい。サボりか? そうやってサボってるやつに呼び出されても信憑性に欠けるっつーか同類にすんなっつーか巻き添えにするなよっつーか。とりあえずさ、おれである必要性のない用件なら帰るだけなんだけど。何? わざわざおれに電話してまで直接見せたいものって何よ? ちなみにおれは午前の講義終わってさあ今から食事だお昼だランチだいえーってテンション上がってたとこだったんだけどね。分かる? 上がりかけのテンションを挫かれるこの気持ち。上昇気味の感覚をはじかれるこの気持ち。興奮してきた感情をへし折られるこの気持ち。いやもう、脱力脱力。大したことなかったらおれでも怒るからなあ。こうやって自分の車まで出してきたんだしさ。校門出るときのセダン見る他の生徒の目、どんなだったか想像つくか? すごかったな、久し振りに引っ張り出すと。特にあれじゃん? まだ新入生入ったばっかりでおれみたいなやつの存在を知らないってことが多々あるじゃん。黒塗りセダンだぜ。普通、大学じゃ見ることないよな。今にして思えばけっこう異常だよな。おれら。リューヤもだけど、おれも。まあ何が言いたいかっていうとだな」
「るせえ」
ばたん。
竜也は瀬木の目の前で扉を閉めた。
5分後。
「…………マジですいませんでした」
「その減らず口も少しはおとなしくなったか?」
「いやさ、もう反省したから中に入れてくれんかね?」
竜也は戸口にもたれかかって逡巡したが、やがてチェーンを外し、戸を開いた。
「上がれよ」
「いやあ、悪ぃ悪ぃ」 瀬木の声は相変わらずどこか抜けていた。飄々として、余裕ぶった言い方。
「それで、『証拠』ってのは?」
「電話をちゃんと聞いてなかったみたいだな。俺は『証拠人』と言ったんだ」
「人間かよ」
返答の代わりに、正面の柱のあたりで両手足をぐるぐる巻きに縛った青年を示す。
「あれだ」
「おっけー」
瀬木は靴を脱ぐと、やや早足に青年――安城答矢のところへと近付いていく。
見定めるように、眼鏡越しの視線を這わせながら。
ガムテープの下で答矢は何かを言おうとしたが、当然口は動かなかった。
「へえ」
そのまましゃがみこんで、答矢と目の高さを揃える。
昼間ではあったが部屋のカーテンは閉められており、瀬木の表情には影が下りていた。
「はじめまして」
言いながら、瀬木は答矢の腕に軽く触れた。
「……?」
「おれは瀬木一。名木嶋研究室の生徒だ。以後お見知りおきを」
「!」
答矢の顔が引きつった。
その様子を見届けて、瀬木の不敵な顔が竜也に向けられる。
「リューヤ、こいつ本物だな」
「ああ。らしいな」
「ちゃんと俺の名前に反応した……呼吸も乱れたしこの顔が全て物語ってる」
すっと音もなく立ち上がり、呆然としたままの答矢に背中を向けて瀬木の言葉は続く。
「こいつ捕まえた時、他にも何かあったのか?」
「というと、何だ?」
「決まってるだろ。リューヤが『証拠人』と決め付けた『証拠』とか、な」
竜也は静かに首肯する。
その手に既に、持っていた。
それを。
全て見通していたように、あらかじめそれを持っていた。
決定的な証拠を。
圧倒的な物品を。
「これか?」
それは安城答矢の右腕につけられていた――
「携帯式ソリッド・ビジョン展開装置と複合式ゲーム演算装置」
細長く角ばったフォルムは、何かの武器か防具を思わせる。
板のような平たい部分は屈折していて、数箇所のランプと、何かの挿入口があった。
その上、全体の中心部には円状の核部分があり、カードの束が入っている。
「早い話がデュエル・ディスクだ」
瀬木がぼそりと呟く。
つまりそういうことだった。
「こいつはおれの作品。ちょいと前に盗まれた成果」
昨日の夜――正確には、夜が始まった頃。
遊部ルシナと木本竜也は一人の人間に遭遇した。
日野辺むとの。
彼女が告げたのは、瀬木一に起きている事件。
研究室が挙げた成果が、盗まれた。
そう言い残した。
あとは簡単だった。
行き着く先は、自然。
辿り着くのは、当然。
名木嶋研究室の成果、瀬木一の成果はそれしか思い当たらない。
ルシナも竜也も、それ以外を知らない。
すなわち『ソリッド・ビジョン・システムが盗まれた』ということ。
そしてそれを見つける方法は単純である。
立体映像は作動させなければ異常かどうかが分からない。
ならば、作動させる必要性がある。
つまり試運転させているところを叩けばいい。
不遇にも――あるいは幸運にも。
ルシナと竜也がその現場を目撃したのは、知らされた直後のことだった。
事実を告げられた後、夕食を摂り、まさしくその直後。
物語の開始。
初速がつき始めていた。
「おれが」
瀬木は竜也の手にあるディスクを見つめて、小さい声を響かせる。
「おれが、いつ」
「?」
「おれがいつ、この事件のことを話した?」
床を蹴る音。
跳躍。
ぎしり。
軋む。
一瞬して、瀬木は竜也につかみかかっていた。
「おれは言ったはずだ――『おれは負けた』と!」
「ああ」
「勝ったほうが負けた奴の用件を聞く! そういうルールだっただろ……!」
「そうだな」
涼しい顔をしている竜也と対峙する瀬木の顔は穏やかではなかった。
怒り。
憤り。
肩口がわなわなと小刻みに震えている。
「おれが! リューヤに!」
むんずと襟首をつかんで前後に揺さぶる。
「いつ! この事件のことを話したァ!?」
その顔は感情的だった。
込み上げてくる怒りを抑えきれずに。
否。
「誰がお前の手を借りるなんて言った! あァ!?」
竜也の言葉はない。
ただ、動揺することさえしない。
冷たく、静かに立っているのみ。
少しも反応せず、反論せず、落ち着いていた。
『冷血漢』の称号は決して伊達ではなく――たとえそれが、仲間の激昂であったとしても。
木本竜也は揺るがない。
そして瀬木一も収まらない。
「ふざけてんじゃねえよ!」
「……」
「どこで調べた! 何を根拠にしたァ! 言えよ、リューヤ。お前、何をした!」
それは正しくは――怒りではなく。
仲間を巻き込んだこと。
仲間が巻き込まれたこと。
それも、自分が起こした問題に。
自分が引き起こした因果に、何の関係もないのに。
関係ないのに。
巻き込んだ。
不甲斐なさ。
情けなさ。
それが瀬木を突き動かしていた。
「聞いた」
何のことはない。
「あ?」
「聞いたんだよ。日野辺むとのに」
「日野辺さん?」
意図せぬ名前に虚を突かれたのか、瀬木の表情が不意に緩んだ。
きょとん、と。
「日野辺さんって……おれの後輩の」
「ああ。その日野辺むとの。あいつが昨日、帰り間際に俺たちに言った」
校門で。
夜が始まるその下で。
「お前の研究成果が、『盗まれた』ってな」
「あ――――そう」
そのままするりと、力をなくした瀬木の両腕が竜也から離れていく。
脱力。
これこそ。
「日野辺さんが」
「ああ。そうだ」
「……確かに昨日、帰りの前に出てったっけな。見送るとか言って」
見送りねえ。
心の内で竜也は呆れていた。
あれが見送りっていうのか?
「そうか……日野辺さんが、か」
「後輩に要らない心配かけてんじゃねえよ」
竜也は力の抜けた瀬木に、手に持っていたものを差し出す。
デュエル・ディスク。
研究成果。
「お前はそんなに――俺を過小評価してんのか? 瀬木」
押し付ける。
ぐっと、力を込めて、ディスクを彼の腹部に。
受け取れよ、という言葉を込めて。
「面倒ごとは減法じゃなくて除法で解決するもんだろ」
冷え切った瞳を見開いて、眼光を宿らせる。
「俺も入れろ」
瀬木はしばし、呆然としていた。
何を思うでもなく。
ただ、竜也の目に飲み込まれそうになって。
仲間。
意思が伝わるでも、伝えるでもなく。
それでもこうして同じ。
同じ場所を見据えたところにいる。
「はっ」
やがて沈黙を破るように無理矢理笑った。
「事件の解決なんざ――『除教授』のおれに任せておけばいいのによ」
「……」
「仕方ないから入れてやるよ」
両腕でがしりとディスクをつかむ。
受け取ったぞ、と言わんばかりに。
奪われた成果を、その手に収めた。
感情が静まる。
瀬木はにこりとして、頭を下げた。
「すまない、リューヤ」
「知るか。それより」
竜也の声は相変わらず冷たいまま、矛先を変えた。
「!?」
安城答矢だった。
「まずはこいつを締め上げて情報を吐かせるか」
「そうだな。そうするか」
瀬木が眼鏡を光らせて腕を派手にばきぼきと鳴らした。
竜也の視線はもちろん、射抜かれるように鋭い。
そんな二人を前にして少しも動けない。
そんな二人を前にしてしまっている――
「覚悟は」
「いいか?」
いいわけ、ねえだろ。
答矢のその言葉はガムテープの下に消えた。
休日もそうだったが、当然ながら、平日の食堂も混む。
「で、何だよ……話って」
講義が終わるなり市田沙耶に呼び出しをくらった浦上英仁が言った。
実際のところ、何を言われるかはおよそ見当がついていたが。
目の前に座る沙耶の唇が動く。
「昨日の続き」
「はあ。やっぱりそうか」
「何でそこで溜息つくのよ。何かまずいことでもあるの?」
ないけどさ。
今後の説明の面倒くささを思うと、英仁の心は鬱屈していた。
「なあ」
「何よ」
「昨日俺が思いついた『心当たり』だけどさ――そいつ、この大学にいるんだ」
「へえ。それで」
「今からそいつのとこ案内するからさ」
英仁は苦笑しながら言った。
「話はそれからってことで。それでいいかい?」
「……本当に?」
「うん」
「あっそ」
彼女は一瞬だけ考えるフリをした。
「ま、何でもいいわ。じゃあ連れてってよ」
市田沙耶。
浦上英仁。
暗黒狂獣と巡り合ったこの二人は――名木嶋研究室へと足を運ぶ。