第十三話 闇と恐怖
「どうもお邪魔しましたぁ」
「いやいや。何も力になれなくてすまないね」
二人が部屋を出るとき、もう日は傾きかけていた。
影が少しずつ長くなり始める時間帯。
構内の人間が減り始めていく時間帯。
ルシナと竜也が帰るのを、瀬木とむとのは、光学棟の入り口まで見送りに出ていた。
「あの……」
「あ?」
竜也の冷たい返答に、声をかけたむとのは一瞬ひるんだ。
一瞬だけ。
彼女はその耽美な体を折り曲げて、礼をした。
「す、すみませんでした。その……初対面なのに、お気を使っていただいて……」
最初。
本の山が乱立していた研究室に寝転がっていたむとの。
その本が崩れ、埋もれたと思われていた彼女を――捜索した、竜也とルシナ。
結果的に無事だったのだが、その行為自体の意味は失われない。
彼女の中に残っている。
「いいんですよぉ」ルシナが前に出てきて、快活に笑った。「私たちに隠れた才能があるってことも分かりましたし」
「何の話だ」
「片付けの才能?」
「知らん」
竜也はそっぽを向いた。
「じゃ、私たち帰りますね」
「『私たち』って……帰る先も同じなのか? まさか同せ」
「んなわけあるか!」
竜也が叫んで、彼らは別れた。
二人は校門に向かって歩いていく。
二人は研究室の中へと戻っていく。
夕暮れで影が伸びる。
夕闇に光が霞みだす。
夜が始まる。
「それにしても木本君」ルシナの声はいつもと同じ、弾むような嬌声。
「何だ」
「すごかったですねえ」
「何が」
「何って」
昼前と同じようにルシナが竜也の前へと躍り出て、その目を合わせた。
上目遣いの、好奇の瞳。
「さっきのゲームですよ」
「ああ……あれか」
「すごいですよねー。近代科学じゃあんなこともできるなんて」
「ホログラフィック技術くらい知らなかったのか?」
「私、文系でして」
「俺だって文系だ」
「ひとえに文系といっても外国語専攻でして」
「それがどうした」
「いや、どうしたって」
「まあ」
そこで一度、会話は途切れた。
竜也が歩みを止め、ふと宙を見る。
月を探したが見当たらなかった。
「あれは……ソリッド・ビジョンシステムよりもむしろ」
そこまで言ってから竜也は顔を下ろした。
視線を下げる。
視界に入ってくる景色が変わる。
月のない夜空が消えて、大学の構内に植わっている樹木が目に飛び込んでくる。
すぐそこに遊部ルシナ。
きらきらとした目で竜也を見上げる、きょとんとした表情の彼女。
後ろには木々。
背景に薄暗闇。
そこにいた。
「――――ッ!」
がばり、と竜也がルシナの肩を寄せる。
「きゃっ!?」
そのまま両手で体をホールドし、全力でもって、自身の左側に移動させた。
一瞬だけ宙を舞ったルシナの細い体。
「き、木本君……」
返答はない。
ルシナはその表情を見る。竜也の腕に抱えられながら、彼の顔を見る。
呼吸は乱れていない。
冷や汗も垂れていない。
顔色も普段と変わらない。
『冷血漢』――木本竜也。
取り乱した様子がまったく見当たらない。
「木本君ってば、大胆ですね……」
「黙れ」
冷ややかなツッコミもいつもと同じ。
即座なる反応速度も毎度おなじみ。
だが、違う。
何かが違う。
何も変わらないのに、分かる。
何も分からないのに、伝わる。
ルシナはそれを読み取って、今更のように視線を合わせる。
木本竜也の見ている方向に、視線を向ける。
「お前は――」
竜也が言った。
「何を――」
その声さえ、いつもの調子と同じなのに。
薄い夕闇。
伸びていく影。
夜の始まり。
夕の終わり。
木々。
いた。
「……一つだけ、言っておきたいことが」
それは口を利いた。
「何の用だ」
「瀬木先輩が……勝ったときに知りたかったこと、です」
それは返事をした。
「あの人は……いいえ、我々の研究室の研究成果が」
それは淡々と述べた。
「はい? ……あの、何がどうなって」
「静かにしてろ」
状況がよくつかめていないルシナは一人、竜也の脇に抱えられたまま傍観していた。
「盗まれました」
それはただ、事実を言った。
「盗まれた?」怪訝そうに跳ね返す竜也。「どういうことだ」
「あの立体映像技術、瀬木先輩の言う、ソリッド・ビジョンの……進化型」
それは無機質に、続けた。
「詳しいことは口止めをされているので……ここまで、です」
「……お前は」
竜也の声は冷たい。
どこまでも冷たい。
無情なほどに。
「どうしてそれを、今、伝えた」
それは揺らめくように体を動かした。
「どうして、と言われましても……ただ」
それが何かした。
「そのほうが、楽しいし」
「――――あ」
ぶれる。
ルシナの全身が細かく震えていた。
「あ、あ」
戦慄。
怖気。
「あ、あ、あ」
寒気。
寒気寒気寒気寒気寒気寒気!
「あああ、あ」
ぞっとするほどの何かがルシナの体を蹂躙していく。
低体温。
停滞音。
渦巻き。
ぶれる。
「ああ、あ、う」
闇が、包み込む。
生まれ出てきた夕闇が這い出てくる。
伸びていく影が自律して行動しだす。
寒冷さをひたすら感じていた。
恐ろしさをやたら感じていた。
「う、く、うぅ」
圧倒的だ。
ひどく感情的で。
ひどく生理的で。
ひどく概念的で。
ひどく抽象的な。
苦痛。
寒気。
冷たさ。
「う、うう、ううぅ――」
耐え切れない。そう思った。ルシナは本気で、折れそうになった。
闇に飲まれて。
得体の知れない――『それ』に、負けて。
未知の感覚。
たった一人で――
一人?
「おい」
「は……」
「しっかりしろ、重い」
見れば――竜也の顔。
ルシナはまだ、その腕の中にいた。
背景はいつも通りの大学構内。
薄暗い夕闇。
木々。
細く長く伸びた影。
どこか遠くの、赤色の余韻。
「はっ……! わ、私はっ!?」
「話せるのなら――まずは、自分で、立てッ!」
竜也が、完全に体重を預けていたルシナを突き飛ばす。
数歩よろめいた彼女だったが、なんとか、立ち上がった。
「ふ、ふう。ルシナちゃん復活です」
「黙れ。自分で自分に何が起きたのかも理解していないのに」
竜也の指摘は冷たいものだったが、その通りだった。
ルシナは気が付いたら――飲まれて、終わった。
いつのまにか、それに、負けていた。
完膚なきまでに圧倒された。
闇と、恐怖とに。
感情性の、何かに。
「あの、私、どうなっちゃったんですか?」
単刀直入にあっさり聞いてみた。
対する返事もあっさりしていた。
「知るか」
「え?」
「何なんだ、あいつは――」
竜也は表情を変えずに睨む。
その方向には、木々。
ついさっきまで、『それ』がいた場所。
闇の発生源。
恐怖と冷たさの発信源。
「くそっ」
彼のガラにもない舌打ちが、その思いの高ぶりを示していた。
冷たいことで知られる木本竜也さえ。
好奇心旺盛で知られる遊部ルシナすら。
完全に圧倒されていた。
竜也はただ見つめる。
さっきまで、日野辺むとのが立っていた木々の間を。
同時刻、某所のコンビニ。
「ふう、あと一時間」
市田沙耶は腕時計を確認して、自分のノルマを認識した。
夕方のこの時間帯は人気もなくなってきている。
かといって入り口に不良が溜まるにはまだ早く、ちょうど空白のようだった。
「てんちょー?」間の抜けた声で呼ぶ。
代わりに返ってきたのは、別のバイト仲間の声だった。
「店長なら出かけてるよ」
「えー? なんかここ、雑誌が変に偏ってるの、直したほうがいいかなと思ったのに」
「そんくらい自分で考えて直しなよ……商品整理の一環として」
「うーん。じゃあ聞くけど」
彼女はそう言って、同僚のほうに振り返る。
「浦上くんだったら直す?」
「そうだな、俺だったら……」
言葉がそこで途切れた。
「…………」
「何? どしたの?」
「ま、ま、ま」
「ま?」
意味不明という表情の沙耶に、浦上と呼ばれた男は店の外を指差した。
彼女のちょうど、背後を。
「ま、窓の外……」
「え?」
回れ右。
言われるままに窓の外を見た沙耶は息を飲んだ。
「うそ……」
人のいない、コンビニの外。
駐車場に、恐竜がいた。