悠久フィロソフィー

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D.D.外伝第十四話

第十四話 夢と恐獣
 
 
 ティラノサウルス・レックス。
 はるか昔に誕生し、はるか昔に生息し、はるか昔に死滅した巨大生命体。
 略称をとって『T-REX』と呼んだり、単純に『ティラノサウルス』と呼ばれたりする。
 はるか太古の生物。
 はるか古代の恐竜。
 現代に存在しえないもの。
 現在に生存しえないもの。
 いてはならないもの。
 いてはいけないもの。
 それが――
 
 
 
「やあおかえり、日野辺さん」
 光学棟、名木嶋研究室。
 瀬木は帰り支度を始めながら、部屋に戻ってきた女性にそう声をかけた。
「どこ行ってたのさ?」
「……少し」
「やれやれ、無口なんだから。本当におとなしいね」
 快活に明朗に、眼鏡を光らせて白衣をはためかせて、『除教授』こと瀬木一、話す。
「言いたいことがあったら言ってもいいんだよ?」
「は、はあ」
「何か言いにくいことでも、構わないからさ」
「はい……」
 
「何か隠してるなら、教えてくれないかな」
 
 一瞬だけ――緊迫感。
 糸を張ったような空気。
 綱渡りのような雰囲気。
 不敵な表情の瀬木。
「わ、私は何も」
「いや」瀬木はにこりと破顔し、白衣を脱いだ。「何でもない」
 日野辺むとの――彼女にそう笑う。
 端正な顔立ちと細いすらりとした体の彼女は、見た目に違わぬ静かな態度。
「ねえ、『聖清楚』さん」
「……はい? 何ですか、そ」
 
 どどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどどど
 
 彼女の言葉は、突如鳴り響いた電子音で遮られた。
「あ、ごめん、電話」
「……」
「『どんな着信音だよ』って顔だね。大いに結構」
 瀬木はカバンから携帯を出して応じた。
「はいもしもし」
 
 
 
 
『はいもしもし』
「瀬木かッ!?」
『ああ、そうだけど。エージか。どうかしたか? もう金は貸さないぞ』
「違う! お前、ソリッド・ビジョンに詳しかったよな!?」
『詳しい、ってか、第一人者だが』
「だったらお前に報告だ!」
『何のことだ?』
「今、俺のバイト先で……」
 
 そこまで言って、浦上英仁は窓の外を見る。
 人気のない、夕闇の中で広がっているコンビニの駐車場。
 そしてそこにいる、真っ黒い恐竜。
 漆黒のティラノサウルス・レックス。
 
「ぶ――暗黒恐獣がいるんだよ!」
 
 
 
 
「ブラック・ティラノ?」
 彼にしては珍しく上ずった声を、瀬木は出した。
 むとのがやや訝しげな表情で、そんな彼を見つめる。
 
「あの、簡単にダイレクトアタックできそうで一見強そうだけど実は相手の場に1枚でも守備表示でないカードすなわち魔法とか罠とかがあっただけで直接攻撃できなくなる実はそこまで大して強くもない恐竜族モンスターのことか?」
『ご丁寧にご苦労様! って違えよ!』
「? 今の説明に何か間違いがあったか?」
『解説なんか頼んでねえんだよ! 間違ってるのはてめえの思考回路だ!』
「おいおい、傷付くこと言うじゃないか」
『とにかくモンスターが実体化してやがる……お前、何か知ってるか?』
「いや、まあ」
 
 言いながら、さっきまで竜也と交わしていた会話を思い出す。
 噂話。
 モンスターが犯罪に関与する、怪奇。
 ついに――干渉してしまったか。
 これでもう後戻りはできない。
 これでもう先走りはできない。
 瀬木は一人、己が運命を仰々しく思った。
 何故か自然に表情が緩んできてしまう。
 
「それで?」
 
 
 
 
『それで? エージはどうしてるんだ?』
「いや、外に出ないで店の中にいるが、だけどな」
『だけど?』
「バイトの同僚が一人、外に出ちまった」
 
 もう一度、外に目を向ける。
 そこには真っ黒なティラノサウルスと――
 そして。
 
「き、恐竜……」
 
 その生命体を見るなり飛び出た、市田沙耶の姿があった。
 
『何だって? 外に誰か行ったの?』
「ああ、無謀にも」
『あらら……どうするんだよ。パニクってたら何かしら別の被害を起こしかねない』
「あいつ、遊戯王知らないしな」
『とにかく止めたほうがいい。一般人への影響はまだテスト段階だ!』
「ああ、分かっ――」
 
 分かった、と言いかけて英仁は言葉を濁した。
 
「た……」
 
 外には恐獣と、大学生の女性。
 凶暴そうな面構えを呈するその映像に、彼女は――
 
 
「きゃああ! 恐竜だわあ! うわああああい!」
 
 
 はしゃいでいた。
 
『は?』
「あ、いや」
 英仁は一度電話を下ろし、両目を手でこする。
 ごしごしと。
 しかし、もう一度見てみたところで、目の前の光景は変わらない。
 
 
「うひゃっほー! すっごー! ティラノだティラノだ!」
 
 
 まるで子供のように、感情をあらわにして喜びに浸っている沙耶。
 対する暗黒恐獣も――どこか呆れた様子で、覇気を失っていた。
 冷や汗でも垂らしていそうな、困ったような態度。
 
「すまん、やっぱ大したことなさそーだ」
『……? どういう』
 切った。
 
 
 
 
「……切れたよ」
「何の電話だったんですか?」
「ん、いや。エージが大丈夫っていうなら大丈夫なんだろ」
 
 何かを悟ったようでいて――その実、何も悟っていなかった瀬木だった。
 
 
 
 
 英仁は店の外に出た。
「あ、あの、市田さん」
「てぃーらーのっ、てぃーらーのっ」
 完全に自分の世界に入っていた。
 輝かしいばかりの笑顔に、全身を動かす感情表現。
 市田沙耶、フィーバータイム。
 
「ああもう、夢みたあい!」
 
 そう叫んで、とうとう。
 彼女は、暗黒恐獣に飛びついた。
 
「あ、市田さ……」
 
 当然、立体映像に実体はない。
 すなわち、触れることはできない。
 飛び掛る沙耶。
 迫り来る笑顔。
 ブラック・ティラノは――どこか引きつった顔でそれを見ているばかりだった。
 どうして!
 どうしてこんな目に――!?
 
「うひゃあっほーおーい!」
 
 奇声を上げて狂ったように宙を舞う大学生。
 暗黒恐獣が――
 
 
 消えた。
 
 
「えぶし!」
 
 世界の真理。
 何もないところに飛び込めば地面にぶつかる。
「痛い……」
 当然の事実。
 必然の結果。
 何もおかしなことはない。
「お、おい、大丈夫か?」
 英仁が駆け寄りながら、不安げに話しかけた。
 駐車場に倒れる彼女はぼそぼそと、歯切れの悪い声を出す。
「私は大丈夫……でも」
「でも?」
「ティラノちゃんがいなくなっちゃった……」
 英仁は痛む頭を手で押さえた。
 
 
 
 
 
 
 
 数分前。
「――ちっ、話し中だ。瀬木の野郎」
「間が悪いですねー」
 ルシナと竜也は、校門を出たすぐそばにいた。
 瀬木一が浦上英仁と電話をしているとも知らずに、交信を図っていた。
「仕方ない」
 携帯をしまって、竜也は立ち上がる。それに倣い、ルシナも立った。
 闇が色濃い。
「また機会があったら聞くとするか」
「そうですね……」
 聞き逃した内容。聞いていない真実。犯行。
 そしてそれを伝えた影。
 
「どうして瀬木さん、私たちに窃盗のこと教えてくれなかったんでしょう?」
「さあな」
「ところで木本君」
 
 ふと、風が流れる。
 黒い風は昼間の温かさを失っていて、ただ冷たい。
 ルシナは首をかしげながら言う。
 
 
「あの人、誰だったんですか?」
 
 
 あの人――というと。
 竜也が思いつくのは、先の情報を圧倒的な気配でもって伝えてきた影しかなかった。
「何だお前、見てなかったのか?」
「はあ。情けない話ですけど、すぐにのされちゃいまして」
「声くらい聞いただろ」
「忘れました」
「体格くらい分かるだろ」
「よく見てません」
「あの時感じた雰囲気は――」
「木本君から感じた体温なら覚えてますけど」
 
 竜也はとりあえず、ルシナを殴った。
 
「痛いです……」
「馬鹿かお前」
「今日はそればっかりですね……」
 
 進展はあるようで、なかった。
 
 
 
 
 
 
 
 さて、市田沙耶が盛大な自爆をしたころ。
 某国某所――某国とはいっても日本なのだが、そのどこかでそれは動いた。
 
「ったく……何なんだあの女」
 
 忌々しげに舌打ちをし、憎々しげに呟く。
 
「ソリッド・ビジョンに驚くどころか……喜んで飛び掛ってきやがった」
 
 想定外の事態。
 まさか予知していた範囲外で――あんな対象がいるとは。
 
「まあいいか。今回の一件くらいサボったって別にいいだろ」
 
 そう言って、その人物は闇に還る。
 その手に、『暗黒恐獣』のカードを携えながら。