第十六話 品と決闘
「っつあ……はあ、はあっ!」
彼は影の中を走っていた。
一心不乱に、周囲を気にせずに――しかし少しずつ、その歩調は緩まっていく。
肩で息をする。
呼吸の荒さが、闇の中でこだましていた。
「な……何だったんだ、さっきのあいつは――」
いきなりいた、振り返ったらそこにいた、あの人間。
透き通るように、美しいくらい冷たい瞳の人間は、何だったのだろう。
彼は疑問に思っていた。自分が、そもそも自分があそこまで迫られていて気が付かないとは異常事態だった。
影の中にいたのに瞬時に詰め寄られていた。
一体、いつの間に?
「……っあ、はあ」
彼は歩みを止めた。
手近な塀に体を預け、呼吸を整えようとする。
「電話……聞かれたのか?」
自問する。
そう、もしも最初からつけられていたのなら――電話内容も丸聞こえどころの話ではない。筒抜けもいいところだ。公開情報が過ぎる。
バレバレだ。
自分のことも、自分の所業も。
と。
「よう、答矢。何やってんだ?」
そんな彼に――声をかける人物がいた。
「……施行」
彼は声の主に目を向ける。
交差点の向こう側から、一人の男がひたひたと歩いてくるところだった。
「息が上がってるぞ。日も暮れたっていうのにランニングかい? ご苦労なこった」
「…………」
「黙るなよ」
その男は、すっと彼の場所まで至る。
同じように塀にもたれかかり、半袖から出た白い腕を組んだ。
「何かあったのか?」
「何ともねえよ」
「嘘だな」軽く言った。「話せよ。何があったのか」
「……」
「心配するなよ、別に取って食おうってわけじゃない」
「お前がそれを言うかよ」
月夜。
塀に二人。
そうして彼は、そして彼に、語り出す。
「ありえねえ奴がいた」
「へえ。俺ぐらいに?」
「知るか。……とにかくやばかった。気が付いたら真後ろにいて、マジでビビった」
一部始終はそれだけである。
ただ後ろを取られて、それに気付けなかっただけのこと。
それがどれだけ常軌を逸したことか。
彼は続ける。
「で、もしかしたらあの人への電話、聞かれたかもしれねえ」
「へえ。そいつはご愁傷様だ。答矢が逮捕されるのも時間の問題かもね」
「ほざけ」
「けどまあ、暴力沙汰なら俺の所に持ち込めよ」
彼はにこりとした。
「『力の喜街』に任せろよな」
「知ったことかよ」
彼は小さく笑う。
刻々と、滔々と、時間が過ぎた。
二人、何とはなしに傍観している。
何にでもなく視線を泳がせている。
それは話題に上った未知なる人間に。
あるいは、自分達を追い回す人物に。
月が照っていた。
雲が照らされていた。
影が生まれていた。
沈黙が続いたのち、言葉が発せられる。
「ところでね」
「何だ?」
「俺、今週分のノルマまだ達成してないわけよ」
「ああ。俺もだ」
ふらりと男は塀を離れる。
あたりは闇。
月明かりに切り取られた薄い闇の影。
人気は――皆無だった。
「じゃあやるか、答矢」
「受けて立つ。施行」
彼――安城答矢と。
彼――喜街施行と。
二人は黒を挟んで対峙した。
『デュエル!』
突き出した腕には何かが装着されていた。
同時刻、同市別区域。
「ふう、ごちそうさまでしたぁ」
遊部ルシナがその大量の料理を完食するまでに、さほど時間は要らなかった。
食事のペースだけなら竜也よりも速かったかもしれない。
あるいは、それほどまでに彼が遅かった。
ともかく。
「品のない女だな」
テーブルの上に視線を交錯させて。
そんな彼女に、竜也は辛辣な言葉を突き刺した。
「ひどっ」
「男の前でそんなに容赦なく食う女がいるかよ」
「むう! いいじゃないですかその男女差くらい! ギャルな曽根さんだって大食いで食っていってるんですよ!?」
「……」
文字通り。
「男女差別はんたーい!」
「黙れ。行くぞ」
竜也はルシナの手をとって立ち上がる。
先導されて、手をつないだまま、二人は会計を済ます。
そして、二人で一緒に、外に出た。
「うなあー! 女の子だって食うときゃ食べるんですよぉおーあー!」
「黙れ、馬鹿」
実際は、暴走気味なルシナを竜也が連行していただけだった。
人気のない路地裏まで彼女を引きずっていく。
月が光輝く空の下に、真っ暗な、しかし影のできているのが分かる、そんな乖離的空間。
右も左も、廃墟のような建物に挟まれた場所、小道。
「なにゃぁあー! 男女差別はんた」
そこでようやく、木本竜也は思い切り遊部ルシナをぶん殴った。
「ひどいですよ木本君」
「黙れ」
「一日にそう何度もおにゃのこをぶっ飛ばして、許されるとでも思ってるんですかッ!?」
「知らん」
「女の子の体は繊細なんですう! 男と違って!」
「さっきのさっきまで男女差別反対を叫んでた野郎の言うことか!?」
「女の子に野郎って言っちゃいけないんですよ!」
「だからお前はどっちの立場の人間だ!」
冷静な竜也もさすがに声を荒げた。
そのせいで気付くのが遅れた。
「だいたいお前は――」
言葉が途切れる。
感じる。
何か、そばにいる感覚を知る。
竜也はそれを感じ取っていた。
知っている感覚。
よく知った感覚。
「……どうしたんです木本君。躍起になった教師の叱り方みたいな言葉尻の悪さですね」
「待て。この近――」
「それにしても何でまたこんな人のいない暗い場所にまで来たんですか?」
「待てと言って――」
「は! まさか木本君、人気のない場所で私を手篭めにしようとでも思」
とりあえずルシナをもう一度引っぱたいて黙らせる。
「いいから静かにしろ」
「はい……」
「この向こうだ」
瓦礫にも似た廃棄物の山、それを越えた先に道路が広がっていた。
道路といっても――ひどく小さな道。
周囲の住宅は塀で囲われて、普通の道。
そこに――何かの光が漏れていた。
「あれ……どっかで見たような光ですね」
「行くぞ」
路地を抜け出し、小走りに走り出す竜也。
一瞬、呆けていた。
ルシナはすぐに我に返り、その後を追う。
「ま……待ってくださいよ、木本君!」
交差点の端。
光が漏れる。
その先――
「裁きの龍で攻撃!」
銀色の巨体が咆哮し、全身に光を集約させる。
四足の龍は、何も存在していない空間に立つ彼に向けてブレスを放った。
「ち――ッ」
答矢LP:0
「俺の……負けか」
「は、まだまだ雑魚だね、答矢。そんなんじゃいつまで経っても俺には勝てない」
二人が見た、それは。
「な――あれは……!」
「…………」
それは決闘風景だった。
裁きの龍を従えた喜街施行が、安城答矢を圧殺しているシーン。
それは――存在してはならない情景。
ソリッド・ビジョン・システム。
瀬木一の開発した技術がそこにあった。
例えば木本竜也にとって。
例えば遊部ルシナにとって。
それは加速を促す最悪の契機だった。