悠久フィロソフィー

今ここから 改めますか

あらためツイ録 @20140508

ネタと時間が無いので自分が今朝ぼそぼそあれこれ言っていたことをまとめる格好でメモを残しておこうかなと。
情報や意見があっという間に流れてしまうついったの弱点を補うようにして模索が進めばよいなあと思います。
 
 


 
 
5月8日 05:24~06:09 のツイート
 
 
何にしても「まだ詰められる」と感じた箇所は「じゃあ詰めていくようにしようか」と思うようになってきた。これまでが妥協すぎた。


ミソデュエル双子座編を見返してました。デッキ構築に対する考え方が変わってきた今になって改めて見返してみたら、だいぶ印象も変わってた。


これまで長い間遊戯やってきたわけですが、自分が組んだ中で自信を持って良いデッキですと言えるものはあっただろうか。


直近で組んだ3つ4つのデッキについてはどれもけっこう満足してる。一方でどれもまだ完成してはいないと思う。改善の余地・案が後から後から出てくる。


現状のカードプールor自分の発想ではこれ以上改めることができない!という段階まで行ったら撮影に使って崩してしまいたい、というような。そんな考え方もオフ経験してちょっとは変わった気がしますが、ひとつそういう場として撮影という機会を認識するのも手だよなあと思います最近。


オフで変わった、というのは単にあれです。動画を通じて不特定多数にデッキを見てもらうのもオフ会で参加者の方にデッキを見てもらうのも概ねやっていることは被っているから、というかやっぱりそれだったら直で向かい合ってデュエルしてる相手のほうが中身を見せていて楽しいから、というだけのこと。


いわゆる「紙束」を動画に上げることは純粋に恥だと思うようになってしまいましたとさ。そのへん無闇に意識高い系っぽいかもしれない。ただしたとえ個人の中で完結していてでもこだわり・目的を持って組んだのであれば、それを無下に紙束と呼ぶことも差し控えるべき、とも同時に思うわけです。


こだわり、目的、美意識、プライド、みたいなそういうあれこれってもうもはやレギュレーションの一環みたいなもので。ここが食い違うと基本的に勝負は成立しない。表面上はゲームになるかもしれませんけどまあ虐殺で終わるでしょうし。これを共有(ないし許容)できていない空間で動画は撮れない。


前提が理解できていないと「霊使いで大会来てんじゃねえぞそんなんで俺の相手しようとか舐めてんのかコラ」とか「奈落脱出なんか使ってんじゃねえよそんなんで面白い動画になると思ってんじゃねーぞコラ」みたいな両極デッカス発言にも結び付く気がする。


かといって最初にデッキの内容から使うカードからなんもかんもネタばらししてまで自分の境遇・所属を詳らかに明らかにする必要性もそりゃあ無いと思うんですけどね。デュエルしていく中ですり合わせていくこともできるだろうし。お互いにそうギスギスしてなけりゃいいだけのことではある。


(論展開の落としどころがわからなくなった顔)


(せっかくTLに人がいない時間帯だしもっと色々言っとこう)


いわゆるガチとカジュアルの違い(「があるのかどうか」含む)を考える時に色々比喩を使ってます。ちょっと前までは砂場みたいなもんだと思ってました。その前はスケートみたいなもんだと思ってました。


今現在大陸の西と東みたいなもんかなーと思ってるんですが。冷静に考えるとあんましっくり来ない。


ここ1年くらいブログに書いた・残したデッキレシピを読み返しながら思うのですが、自分の力でイチから組んだデッキ、完全にオリジナルなデッキ、というのは、まあ弱いです、脆いです、芸が無いです、余りにも勝てなさ過ぎて心が折れそうになります。 しかしとびきり愛着が湧きます。間違いなく。


別にパクリでも良いと思うのですが、パクったらパクったでオマージュ元&発案者も一緒に印象に刻まれます。そのデッキを見返すたびにああこれは○○さんのギミックだよなあという想起がなされ得ます。その時に、その○○氏に対して良い印象を持っているなら、そんなに悪くはないんじゃないかな、とか。
 


 
 
「面白いデュエル」「面白いデッキ」というものについてよくわからなくなってしまうのは、それがどういった方向性に沿って面白いと評価されるのか、といったことに絶対的な基準が無いからであると思うわけで、そのひとつわかりやすい区別がいわゆる大会環境/ファン環境の差であるのではないかと考えています。
翻って、「動画撮影」という機会であればその「面白さの方向性」は統一されているべきだろうと。デッキ間・プレイヤー間に温度差めいたものがあると見ていてやはり厳しいものがあります。「音楽性の違い」とかいう言葉で解散するバンドみたいなもん。
 
 
デッキの中身について。最初っから、完全にイチから組むことはまあ不可能です。かくいう私が顕著な例です。自力でデッキを考案するようになったのははっきり言ってここ1年の出来事です。
これは多くのデュエル動画さんの影響によるところが大きいです。逆に、自分でデッキを考えるようになったから撮影してみようかなという気になったともいえます。なんてわがままな
 
 
「良いデッキ」というものについてけっこう悩んでいます。【銀河森羅】や【紋章エクリプスマドルチェ】のような、それなりにオリジナリティがある組み合わせのデッキをある程度の形にしながらも結局やっていることはそのテーマの動きでしかない、というデッキは果たして面白いデッキと言えるのかどうか。
あるいは多少マイナーな動きをしてもそれが箸にも棒にもかからないような微々たるものであるのはどうなのか。逆に、回った時だけ一撃で8000削るくせに回らない時は微動だにせず虐殺されるデッキというのは果たして認められるものなのか。
最近では後半2つに関してはADS動画という形式を覚えたので多少は補完された気がしています。
 
 
「大会/カジュアル」の比喩について。
「砂場」というのは遊戯王のカードプールを広大な砂場に例えたものです。ガチの人は全力で、それこそスコップやドリルを使ってでも全速力で一定の深さまで穴を掘る速度を競う。ファンの人は泥団子作って投げつけあってるイメージ。動画勢は細かな装飾まで凝らした砂の城を高々と建築している人たち、ということになります。
「スケート」という比喩は、ガチはスピードスケート、動画はフィギュアスケートみたいなもんかな、と考えたことによります。ファンの人たちは普通にスケートしにきている多数一般の方?
「大陸の東西」はわかりやすいです。遊戯王という共通の土俵で地続きになっていても、アジアとヨーロッパとでは言語も価値観も違う。そこにはグラデーションがあり、どこで途切れるということは実ははっきりしていない。しかしこれはあんま良い比喩じゃない気がしてきました。
何にせよ共通していることは、ガチでもネタでもやってることは結局同じ遊戯王なんですよという。あくまでも同じゲームをやっているその上で差異が生じているのだという、そういうことだと思っています。
 
 
とりあえずよくわからなくなっていたのは「自分が組んだデッキで一番良いデッキは何だろうか」という一点でした。凄い人の凄いデッキが回る凄い動画を見ていると、じゃあお前はどうなん、という話になります。
コンボ単位、あるいはシナジー単位で考えるのが好きな自分にしてみれば、あまりデッキ単位で良いものを考えたことも、実はそんなに無いのではないかなー、と漠然と不安に駆られているわけです。
少し前までは【あらため式古明地こいし無意識バラバラコントロール】あたりの東方ファンデッキには一定の自信を持っていたのですが、それもオフで見事に爆散しました。
そこそこ面白い組み合わせを使って無難な動きをするのがよいのか、特定のマイナーなカードを全力でプロデュースするのがよいのか、安定してワンショットを叩き込むのがよいのか、吐くほどいやらしいロックをしかけるのがよいのか、何かモチーフを定めてそれに沿った構築をするのがよいのか、何をすれば「良いデッキ」になるのか、その文脈は個人において/動画の方向性においてそれぞれ変わってくることになり、それらは万人に必ずしも共通するものではないわけです。
要は「自分が組んだデッキで一番良いデッキは何だろうか」以前に「自分はどういうデッキを良いデッキとして見ているだろうか」ということがわからなくなってきていたのだと思います。
 
 
良いデッキのように見える、良い動きをしているように感じられる、というタイミングに際してのプレイヤーや外野の言動がもたらす作用、というものも、ことデュエル動画においては無視できないものであると考えており、次があるならばそういった方面について垂れ流すことになるのではないかなーと。