悠久フィロソフィー

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D.D.外伝第二十話

第二十話 朝と春風
 
 
 朝はいつも通りにやって来る。
 
 彼は目を覚ます。
 見知らぬ天井が見える。すなわち、見知らぬ部屋に安城答矢は寝ていた。
「……?」
 動こうとしても、両手両足を雁字搦めに縛られていて少しも身動きが取れない。
 完全なる拘束。
 ちょっと待て。
 
 
 ちょっと待てぇえ!
 
 
 と言おうとした彼の声は発されない。以前に、そもそも口が開かなかった。
「んぐ……」
「ああ、悪い。大声出されると困るから」
 背後から声がした。男の声だ。
「ガムテープ貼ったから剥がす時痛いかもな」
 答矢の後ろから現われるのは、いうまでもなく木本竜也だった。
 
「!」
「少し――話がある。お前」
 
 竜也は少し眠気の残る目で、静かに冷たく突き放すように言う。
 朝の薄闇の中、完全なる拘束を受けた答矢に相対して、言う。
 
「何者だ?」
 
 
 
 
 
 月曜日。
 木本竜也が遊部ルシナの依頼を受けて――正確には奪い取って、一日が経った。
 
「ふうーえ」
 
 大学構内、時計台のベンチで彼女はぼんやりと空を眺めていた。晴天。昨日に引き続き、相変わらず春の陽気だった。風が心地いい。
「春ですねえ」
 安らかに目を閉じて、ベンチの背もたれに両腕を預けながら、彼女は呟く。
 午前の講義、その狭間で小一時間空いてしまった暇な時間。
「このあとは……ドイツ語でしたっけ」
 独り言でも、彼女の敬語口調は変わらない。ある種の刷り込みかもしれなかった。
 あるいは性質。
「うーん」だらんと垂らしていた腕を跳ね上げ、彼女は軽く伸びをした。
 背骨がかるくぽきぽきと音を立てる。
「そろそろ行きますか……」
 彼女――ルシナがそう口走った時だった。
 
 風が吹いた。
 
 それは誰もの意識をすり抜けて吹き抜けた一陣の風だった。
 ゆえに誰も予期していなかった。
 ゆえに誰も反応できなかった。
 彼女も。
 彼女も。
 
「ひゃぅ」
 ルシナは反射的に、めくれそうになってしまったスカートの裾を手で押さえた。ひゅう、という、軽く素早い小賢しい春の風。時計台の周りにはちらほらと人がいて、そのめいめいが、予想外の域から吹いてきた風に身を撫でられていた。
 誰かの髪がなびいたり、誰かの肩に木の葉が載ったりする。
 誰かの持ち物が飛ばされたりする。
 持ち物が飛んできたり――する。
 
 
「あれ?」
 
 
 ルシナは見つけた。どこからか飛んできて宙を舞う――白い物体を。
 それは紙だった。
 それなりに面積の広い、やや大きな紙だった。
「あれれ……」
 視線で追っている間に、するする迫ってくる白い紙。それは、次の瞬間には、ルシナの腰掛けるベンチの下へと滑り込んでいった。
 するりと。
 簡単に。
 ルシナは上半身をかがめて手を伸ばしそれを拾うと、顔の正面に持ち上げる。
 
「絵?」
 
 そこに存在していたのは、細い淡い薄い黒い線が織り成す一枚の画像。
 一つの確固たる芸術作品だった。
 ただし、下書きの。
「……うまいですね」
 ルシナの声は素直に詠嘆の辞を漏らしていた。
 それほどまでに繊細かつ緻密、高度にして高尚な絵画。
 イラストレーションの、その下書きでさえ、それが分かる。
 描き手の技量と能力。
 題材を見極める才能。
 何もかもが、直感的にルシナの頭の中を駆け巡っていた。
 
「すごい」
 口に出す。
「でも誰の絵でしょう? さっきの風で飛んできたんですよね。きっと」
 
 ここは風下。
 ルシナは絵を持って立ち上がり、ゆっくりと風上の方角へと目を向けた。
 そこは、西門に向かう一本の通り。
 正門の通りと時計台前で垂直に交わる、広いストリート。
 人は少ない。
 人はいない。
 
 
 しかし彼女がいた。
 
 
 雰囲気たるや――悠然と、あるいは端麗と。
 その空間には一人の女性が立っていた。そう表現してしまえばそれまでだったが、違った。そんな言葉で表現できるような事態ではなかった。
 その空間がすなわち彼女だった。
 ルシナとさほど変わらない、あるいは少々年上と見受けられる容姿。目に映る彼女の全身が空間を染め上げていく。視線が、自然と、その姿に引き込まれていく。
 ルシナは芸術作品でも見ているかのように感じていた。
 発している気配が、違う。立っている次元が、違う。長くゆるやかな髪の毛は薄い金色で、淡く光をまとっていた。それは聖なる光。何者にも汚されないような神々しさ。
 春。
 彼女が立っている場所の周囲はまさしく春風のようにさざなみをうつ。
 透き通るように端正な顔立ち、気品に溢れたブラウスとスカートを着た細身。
 意志の強さを窺わせる、猫のような大きい瞳。
 半袖から覗く二の腕、スカートから見える細足のきめ細かな白さと洗練されたバランス。
 正しく一つの空間。
 そんな人間。
 
 きれい。
 
 純粋に、ルシナがそう思った。
 全ての感情よりも優先させて、その美しさに感嘆した。
 未だかつてない衝撃。
 春風の中で、限りない美人と顔が合っている。
 ぼんやりと。
 
 しばし。
「……あ」
 刹那に傍観したルシナは、手に持っていた紙を見て我に返った。
 彼女が歩を進めてきていた。
 
 
「あの」
 
 
「は、はいっ!」
「失礼します、その紙は……」
 
 気がつけばその女性はルシナの目の前まで到達していた。
 繊細な腕を伸ばして、絵が描かれた紙に触れる。
 
「あの、これ」
「これは……」
「さ、さっき飛んできましたょ」
 彼女の目が、絵からルシナの顔へと向けられる。
 蒼然とした深い色の双眸。
 思わず自発的にルシナは緊張感を抱いた。
 
「あなたが拾ってくださったのですか?」
「そうですけど。……いちおう」
 
 金髪の美女はふわりと絵を受け取ると、優しく胸の前で抱いた。
 紙と服がこすれる音がした。
「これは私の絵」
「はあ」
「私の、大事な絵です。風で飛ばされてしまいまして……どこへ行ってしまったのかと心配しておりました」
 そう言うと、彼女はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「い、いえ、そんなぁ」拾っただけだし。「それより、すごくいい絵ですよね、それ」
 無理に話題を変えようとしたルシナに彼女は笑う。
 崇高な笑顔だった。
「いえ、まだ下書きですし……私の腕も、それほどのものではございません」
「そんなことないですよ?」
「褒めていただけるのは光栄ですが、私はこれを描ききってから安堵したいのです」
 花か何か、そういう美しい類のものを連想させるような表情。
 柔和で温暖で、そして圧倒的な笑顔。
「ありがとうございました」
「はあ」
 
「では、私はこれで失礼します」
 
 会話はそれきり終わった。
 金髪を呈した彼女はするりと歩いて行き、後姿でルシナを呆然とさせていた。
 ゆったりと上品に。
 どこまでも高尚に。
 手の届かないような次元に存在する、美しい空間。
「あの人……」
 ルシナは一人残されて、呟く。
 誰にともなく声を出す。
「どっかで見たことがあるような……ないような」
 春風の中でいつしかその気配はなくなっていた。
 夢の中で起きた出来事のように、不確かな実感だけがルシナの頭に残っていた。
 
 そしてルシナは、
「芸術科目の人でしょうか?」
 とりあえず、それだけ推察しておくことにした。
 もうすぐ講義が始まる時間だった。
 
 
 
 
 
「……」
「ふん、やはり俺が何を問いだしても聞く耳持たず、か」
 
 午前もある程度回って、家の中で竜也は、未だに答矢と相対していた。
 質問攻めをきめても、何も返答がない。
 
 当然といえば当然だった。
 答矢の口には相変わらずガムテープがついている。
 
「……ッ!」
「反論したそうな顔だな。仕方がない」
 
 竜也は充電器に挿してあったままの携帯電話を引き抜き、電話番号を打ち込む。
 コール音がして、間も無く、相手が受話器を取った。
 
『もしもしー?』
 
 楽天的なその声を聞いてから、竜也は一言伝える。
 
「瀬木か? 重要な証拠人を捕まえた、今すぐ俺の家まで取りに来い」