悠久フィロソフィー

今ここから 改めますか

D.D.外伝第一話

第一話 噂と空気
 
 
 さほど昔ではないが、今となっては過去の話。
 思い出すのも面倒な、噂話。
 思い返すのも退屈な、御伽。
 それでも、物語の始まりがあるとすれば――

 それはやはり、この地点。
 
 
 
「突然ですがここで、最近巷で噂になっているおかしな話を聞かせてあげます」
 
 日曜日、お昼時、それなりににぎわう大学食堂。
 その一角にあるテーブルで日替わりランチを据え膳にし、スプーンを握りながら、遊部ルシナは意気揚々と愉快そうな声を出した。
 彼女に向かい合っていた木本竜也の返事は至極簡潔なものだった。
「いらん。帰れ」
「ひっど!」
 対する竜也の昼食は素うどん。かつおぶしの香り以外何もしない。
 割り箸を片手で割り、もうもうと湯気のたつそのうどんを食べにかかる。
 ずるずる。
 
「いやいやいや!」ルシナが叫んだ。「ひどくないですかその態度!」
 
 竜也は麺を咀嚼する口を止めた。
 ルシナの視線が一直線に飛び込んでくる。
 
「何が、だ」
「いやね、私も木本君がクールで冷血なことは知ってますよ? ですけどね、その無関心さは感心しませんよ! せっかく私が噂を教えてあげようとしているというのに! あ、『教えてあげる』? いいですね、この響き。私が教える! 木本君に教える!」
 
 竜也は割り箸を止めた。
 
「っていうか『帰れ』って何ですか『帰れ』って! こうして食券買ってランチ持ってきた女の子に『帰れ』と!? 今からご飯食べようわーいうれしいなあってところに『帰れ』とは! あんさん、本当に人間ですか!?」
 声を荒げるその問いかけに、対照的な、冷めた回答。
「黙れ。消えろ」
「ひっど!」
 ルシナの声はよく通り、食堂中にいる人間の目が竜也のテーブルに注がれる。
 ひそひそとした声はそれでも人の耳によく届く。
 
 ――うわ、あいつ女に向かってひどいとか言われてるぜ。
 ――しかもあんなにでかい声でさ。よくそんな態度取れるよな。
 ――あーいう男って性格悪いよね。私だったら絶対無理。
 
「…………」
 パーティ効果。
「…………」
「ほらほら、周りの空気も私に味方ですよ!」
 竜也は何も言わず、割り箸の端を両手で握った。
「木本く」
 
 
 べき。
 
 
 竜也は何も言わず、割り箸を両手でへし折った。
「は……」
「分かったからとっととその噂とやらを俺に伝えろ」
 からんからんと床に落ちていく、割れた、いや元々割れてはいたが、さらに二分割された割り箸。一瞬の静寂、嘆息が一つあってから次の言葉。
「その代わり、これ以上騒ぐな」
 ルシナの顔が明るくなり、竜也の顔は沈んだ。
 
 
 
「実はですね。モンスターが現れるのです」
「モンスター?」
 聞かなければよかった。
 突拍子もないことをいきなり言われて、竜也の後悔が高まる。
「そう。ドラゴンや悪魔や戦士、ゾンビや天使、虫や鳥とか、いろいろな怪物がですね、夜な夜な現れては悪さをするのです」
 百鬼夜行か。
 都市伝説か?
 くだらない。
 しかし、悪さをするモンスターというのが気がかりになった。
「悪さ、か。傷害か? 暴行か?」
 
 
「いえ、強盗です」
 
 
「…………」
「コンビニ強盗とか、レンタルビデオショップ強盗とかです」
「…………」
 ちょっと待て。
 待て。
 待て。
 竜也の中で、嵐のように疑念が高まる。
「怖いですねえ」
「馬鹿かお前」
 ルシナは一瞬空白を置いて、ぽかんとした表情を作った。
「はい?」
「馬鹿かお前」
「いやそのリピートしなくても分かりますんで」
「馬鹿かお前」
「あのですね」
 
「馬鹿かお前」
 
「いや、上下一行開けなくてもいいじゃないですか」
「馬鹿かお前」
「何回言うんですか!」
 ルシナが両手をばんとテーブルにたたきつける。
 その音でまた、周囲が少しざわつく。
 ひそひそ。
「……ちっ」
「あ! 今舌打ちしましたね! 舌打ちすると幸福が逃げますよ!」
「それはため息だろ……」
 竜也はさっき新しく持ってきた割り箸を片手で割って、呆れた目でルシナを見つめた。
「考えてもみろ。おかしいとは思わないのか?」
「はい?」
「モンスターだろ? そんな奇怪な生物が強盗なんかするか?」
「と、言いますと?」
 もう一度キレそうになった竜也だったが、さすがにやめた。
 
「人間外生物が、人間にとって有用な『金』を盗んで何になる?」
 
「あ」
 そう――社会に参加していないモンスターならば、金銭は不要のはずである。
 ということは、すなわち。
 
「つまり、モンスターもお金を使うように……」
「違えよ!」
 
 さすがに叫んだ。当然、周囲がざわめく。
 竜也は少しうつむき、苛立ちを最大限の精神力でもって抑制した。
 
「……つまり、そのモンスターを利用してる悪党がいるっつーことだ」
 
「あ! なるほど!」ぽんと手を打つルシナ。「木本君、頭いいですね!」
「当然の思考だろ」
「いやいや、そうでもないですよ。さすがです」
 透き通るような声でルシナが褒めるものの、周囲の反応は皆無だった。
 理不尽だ。
「それで何だ?」
「はい?」
「その噂を聞かせて、俺にどうしろと言うんだ」
 ルシナは苦笑して、言った。
 
 
「実はですね、近江君に教えてもらいたいんです」
 
 
 危うく、また割り箸が折られるところだった。
「近江……近江大器、か」
 感情を表にこそ出さないが、その心は平穏でない。
「そうです。あの人に聞かせれば、何か解決してくれるかもと思いまして」
「何故、あいつに」
「そりゃあ、あの人の調査能力は有名ですから。本当は、『情報屋』九面谷君や『解説者』伊奈束さんがよかったんですが、あいにくツテがなくてですね」
 ルシナはスプーンを動かし、デザートのゼリーをすくった。いつの間にか、ランチはあらかた食べ終えている。
 
 
「しかし木本君なら近江君に縁があるそうじゃないですか」
 
 
「……」
「あの『大大器』と呼ばれる人に」
 ルシナの言っていることに、何も間違いはない。
 近江大器と木本竜也には、確かに縁がある。
 
 だがそれは――決して、素敵な関係というわけではない。
 言うなれば――敵対関係。
 
「ということで、近江君にこの噂、教え」
 
「断る」
 
「……はい?」
 ルシナは顔を硬直させた。
 また何かの拍子に折ってはいけないので、竜也は割り箸をテーブルに置いた。
「俺は近江に伝えない」
「な、何でですか!」
「近江に教えるくらいなら」
 竜也の鋭い目が一層鋭くなる。
 
 
 
「俺が自分で、解き明かしてやる」
 
 
 
 きっぱりと言って、竜也は豪快にうどんをかきこんだ。
 麺はすっかりのびていたが、気にならなかった。
 
 
 
 それは非常に空気を読めていない判断だった。
 情に流された竜也には、正確な判断はできなかった。
 
 
 
 噂。
 木本竜也と近江大器の、決定的な絶縁。
 これがすべての始まりで、すべての終わりだった。