悠久フィロソフィー

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D.D.外伝第四話

第四話 本と不安
 
 
 一冊の本は人の手に納まる。
 二冊の本は両の手に納まる。
 三冊の本は腕で抱えられる。
 四冊の本は両の腕で抱える。
 五冊の本は積み上げて運ぶ。
 六冊の本はよろけつつ運ぶ。
 七冊の本はふらふらと運ぶ。
 八冊の本は重たそうに運ぶ。
 九冊の本はカバンを要する。
 十冊の本は入れ物を両手で。
 
 それよりもはるかに多い本は――人に、不都合である。
 
 
 
 海。
 樹海だった本は海となった。
 部屋を埋め尽くす本。その下には機械。そして、人。
 本に飲み込まれた人々。
 
「……つッ」
 
 最初に浮上したのは竜也だった。
 数冊の本を頭から払い落とし、苦痛に顔をゆがめる。
「こんなにあったのかよ、本」
 部屋を埋めるほどの量。
 こんなにも、詰まっていたとは。
 
「まあ、そりゃあ」
 
 振り返ってみると、そこにもう一つの浮上者がいた。
 
「おれの力で集めに集めた本だからな」
 
 上半身だけをちょこんと本の水面から突き出し、朗らかな笑顔を向ける――男。
 先ほど竜也を止めた男。
 竜也の拳を、握った男。
 薄く脱色した短髪に、四角い眼鏡、笑顔。
 彼もまた、白衣を着ていた。
 
「瀬木――」
 
 その名を呼ぶ。
「何だ、リューヤ」
 揚々として返す――
「とりあえずお前ふざけんな」
 竜也は本から足を抜き出し、真下にある本をどかして足場を作った。
 ケーブルの感触が足の裏に伝わる。
「ふざけんなって?」
「ふざけんなよ」
「それはむしろ、部屋をこんなにされたおれが言うべき言葉じゃないのか?」
 彼は目を細めて、なおも不適に笑う。
「それは確かに俺の非かもしれないが」竜也は本をかき分けて一歩、進んだ。「こんな数の本を、あんな不安定に積み上げたままにしておくのはお前が悪い」
「わーお」眼鏡の男は両手を開く。「なんて素敵な言いがかり」
「何とでも言え。だいたい、本の平積みは埃っぽくなる原因だっつったろうが」
 竜也がもう一歩、進む。
 笑う彼の元へと、進む。
「どうしようもないから仕方ないじゃん」
 本をかき分けて、一歩。
 足元にはケーブル、あるいは床の反発感。
「本棚はもういっぱいいっぱいなんだしさ」
「知ったことか。だいたい、こんな量の本、何に使うんだ」
 本を押しのけて、一歩。
 足下には線、線、ときどき機械の存在感。
「まあ、半分近くは自分の読書用だけど」
「持って帰れ。家にでも」
 竜也は進みながら、足元にも気を配っていた。
 わずかばかり、不安因子。
「持って帰れ? おれの家は狭いアパートだってことを忘れたのか?」
「ああ忘れた」
 また一歩進んで――
 
 何かを踏んだ。
 
「おっと」竜也の視線が足元に向けられるが、そこにあるものを視認したらすぐに戻された。
 その位置で竜也は止まる。
 脱色の彼と、人一人が入りそうなくらいの間隔をもって向き合う。
「忘れようとして忘れられるなんて大した新人類だね、リューヤ」
「人を未確認生物みたいに言うな、『除教授』」
「その言葉はおれにとっての褒め言葉でしかないよ、残念ながら」
「知ったことか。お前は立派な悪知恵野郎だ。性悪だ」
「ひどいこと言うなよ。おれはきみと違って一般人だ」
「本に埋もれて生活できるような一般人もいたもんだな」
「おっと全国の読書家と本屋と司書に謝れよ」
「普遍性のないステータスばかりだな」
「それでもそういう人はいるんだから」
「いや、俺が言っているのはお前のことだけだ」
「おれだけを? おれだけ? やだな、ときめきそう」
「死ね」
「ひでえ」
 滔々と続く会話。
 丁々発止の対話。
 竜也の足、踏みっぱなし。
 
「だいたいきみは」
 男がそう言ったところで、二人の間にあった本が吹き飛んだ。
 
 宙を舞う。
 空に踊る。
 本、本、本、本。
 まるで爆発のように。
 まるで炎上のように。
 吹き飛んでいく、欠片。
 吹き飛んでいく、一冊。
 ごう、と音。
 
 爆心地で立ち上がる人間の姿が、一つ。
 
 
「こらあぁあああぁあぁああぁぁぁああーッ!」
 
 
 遊部ルシナである。
 かなり、怒っている。
 
「二人ともさっきから聞いていればなんなんですかこの目の前の惨劇を無視して勝手におしゃべり始めるとか何がしたいんですかていうかまずこの本片付けようとか思わないんですかそういう風に思考が働かないんですかあなた方はっていうか木本君私の右手踏んづけといて何故に意にも介さずなして気にもせずどうして無関心にまたお話に戻っちゃうんですかもしかして馬鹿なんですかそうですねきっとあところでそちらの方どなたですかもしかしてここの部屋の持ち主さんですか今の会話から察すればそうですよねあの初めましてこんな形で挨拶してしまいまして恐縮ですが私は遊部ルシナと申します以後お見知りおきを」
 
「……」
 句読点くらい入れろ、馬鹿。
 言おうとしたが、その剣幕に気圧されたか言葉が出てこなかった。
 
「木本君!」

 ルシナの大声。
「……何だ」
「何で私の足を踏みつけておいて平然としていられるんですか!」
 眼鏡の男は呆然としている。
 いや、ただ傍観をしている。
 木本竜也に助けはない。
「いや、その」
「ふざけんなー!」
「まだ何も言ってねえよ」
 ルシナが大股に近寄ってくる。ずんずんと、吹き飛ばした本で開けた道を、突き進んでくる。竜也にはどうすることもできない。どこにも逃げ場は、ない。
 真実をただ語るのだ。
「俺は」
「木本君は?」
 ずいと下から見上げる、ルシナの大きな双眸。
 眼鏡の彼は、微笑。
「ただ」
「ただ?」
 
「ただ、さっきの女が眠ったまま本に飲み込まれてたら危ないと――」
 
 眠っていては無抵抗。無反応。逃げられず、避けられない。
 つまり、その降り注ぐモノを直撃する。
 危ない。
 危険。
 そう。
 
「あ」
「あ」
 
 ルシナと竜也の声が綺麗に重なる。
「……さっきの白衣の人、どこに」
「俺はまだ見つけてないぞ」
 
 見る。
 部屋を見渡す。
 そこには本。たった今ルシナが吹き飛ばした一部分だけが大きく抉れているようで、そこだけが床をはっきりと露出させていた。
 その周囲には、依然として堆積したままの、本。
 
「あ」
「あ」
「まさか」
「まだ」
「あの」
「本の」
「中に?」
「いる?」
 
 結論が出て、二人は本の山へと突進して行った。
 何かを叫びながら。しかし、その名前を知らないので呼ぶことはできなかった。
 二人は必死に本をかき分けながら、その中へと掘り進んでいく。
 
 
「……やれやれ、何やってるんだか」
 
『除教授』――瀬木、と呼ばれた男は溜息をついた。
「色々あって面倒なことになったっていうのに、なんか知らないけれど、帰ってみれば研究室がこんなことになってるし」
 瀬木は振り返って、横にいた人物に声をかけた。
「ねえ、日野辺さん」
「あの、瀬木先輩」
 白衣を着て、グレーのセーターにタイトスカート、長髪の彼女は言った。
 瀬木の真横に立って、言った。
 
「あの方たちは、何を探しているのですか?」
 
 部屋には、竜也とルシナの声と、本がどかされていく音が響くばかりだった。