悠久フィロソフィー

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D.D.外伝第三話

第三話 鬼と変態
 
 
 遊部ルシナは『奔放風』と呼ばれる。
 それは彼女の性格を象徴し、彼女の性質を批判し、彼女の特質を揶揄し、彼女の特徴を風刺するような二つ名。
 奔放、どこに行くか分からない、何を起こすか読めない、風。
 軌跡の見えない奔放風。
 軌道の見えない奔放風。
 何にでも興味を示し、興趣を添え、興奮してしまう。
 好奇心の集大成。
 妙味性の集合体。
 まるで少女のように。
 
 ゆえに遊部ルシナの情報網は広く、深い。
 噂好き、ゴシップ好き、会話好きの彼女には妥当なステータスである。
 
 しかし知らないものは知らない。
 彼女にも知らないものはあった。
 
 
 
 死体かと思ったが、息はしていた。
「にゅう……」
 時折、妙な寝言も漏らす。
 その寝転がる女性を前に――竜也とルシナは突っ立っていた。
 
「で、木本君、誰ですか、この人」
「知るか」
 
 光源を手に入れた部屋は、改めて見るとかなり広い。
 そして同時に、その部屋を埋める、本と機械の量を思い知る。
 足の踏み場もない、モノで飽和した樹海。
 獣道のように部分的に見える床。
 そして、ごろりと寝転がる女性。
 
「……何で知らないんですか」
「知らない人間のことを知っているとは言えないだろうが」
「まあ、そうですけど」
「今年入ってきた新入生か、モグリで来ている部外者か……そんなもんだろう」
 
 すにょすにょと寝息。
 無造作に眠る彼女の容姿は――
 
「綺麗ですよね、この人」
「……」
 
 白衣。
 ローブのように丈の長いそれの下には、タイトスカートとグレーのセーター。
 さほど背は高くないものの、足の細さがやけに目立つ。
 長髪。
 肩上でざっくりと切っているルシナとは対照的な長い髪が、窓からの光をつやつやと反射して、きらめいている。寝返りを何度もうったのだろうか、かなり乱れているものの、その線の細かさを逆に強調しているようだった。
 そして肌荒れの少なさそうな、薄い色をした顔。表情。
 穏やかで、和やかで。
「いや、これは美人さんですよ。私よりか、ずっと可愛い」
「……」
「あの、どうして木本君は女性の評価になると無言になるんですか?」
「……」
 
 すぐ横に女性がいるのに、他の女を褒めるのは失礼じゃないのか?
 そんな言葉を下の裏で溶かして、竜也は少し顔を伏せる。
 
 
「にゅ、みゅう」
 知らない女性がごろりと半回転した。
 仰向けになり、両手を開き、顔は真上を向いて、両足を開いている。
 両足を開いている。
「おおっ! これはなんという絶好の体勢っ!」
 ルシナの甲高い声が響いたかと思うと、彼女はそそくさと移動していった。
 足のほうに。
 そしてしゃがむ。
 目線は、下に。
 
「……」
 冷徹なことで有名な竜也だったが、さすがに絶句した。
 ちょっと待てや。
 悟られないように、足元に気をつけながら、ルシナの右横へ。
 
「おーおー。パン、ツー、マル、ミエー」
 
 ぶん殴った。
 
「はいいいぃっ!?」
 ルシナの矮躯が吹っ飛んで本棚に激突し、そのままずるずると落ちていく。
 頭上から数冊の本が落下してきて、埃が舞い上がり、窓の外へと流れていった。

 裁きを。
 竜也は本棚に近寄り、ルシナを見下す。

「い、痛いです……」
「死ね」
「ひどいです、スカートの中ちょっと覗いただけなの」蹴る。「ぐひょ!」
 一度びくんとなって、ルシナは倒れた。
「こ、この、鬼……!」
「黙れ変態」
「悪魔!」
「黙れ変態」
「虐待者!」
「黙れ変態」
「鬼畜外道!」
「黙れ変態」
「性差別反対!」
「黙れ変態」
「あ、ちなみに白でしたよ」
「黙れ変態」
「そろそろヘンタイ呼ばわりやめてくれませんかね」
「黙れ変態」
「あのごめんなさい私が悪うございました」
「黙れ変態」
 
 言いながら、竜也の右手がゆっくりと女性のひざをつかみ、その足を閉じさせた。
 綺麗な人がこんなはしたない体勢じゃまずいよな。
 
「え、今何か言いました?」
「黙れ変態」
「あのもう泣きそうなんですけど私」
 泣け。
 
 そのまま数秒の沈黙。
 
 ルシナはよろよろと立ち上がり、竜也のほうへと歩みだす。
 否、その倒れている女性へと向かって。
「何だお前、まだ俺に制裁を加えられたいのか?」
「違いますよ……ただ、一つ、確認しておきたいことがありましてね」
 竜也の横を通り過ぎ、ふらふらしながら女性の横で座り込む。
 数回咳き込んで。
 そして手を伸ばす。
「まさかまだ何か――」
 
「だから違いますって」
 
 声に覇気があった。
 白衣女性の横でしゃがみこみ、どこか沈んだような、静かな表情。
「じゃあ、何だ」
「私が何て呼ばれているか、ご存知ですか?」
 それは周知の事実であり、当然の知識だった。
 しかし、残念ながら木本竜也とは無縁のこと。
「知るか」
「ひどっ」
 ルシナの視線が、眠れる女性に注がれる。
「私の名前は遊部ルシナ」
 手が伸びる。
 
「またの名を『奔放風』――興味と好奇と関心の塊、ですよ」
 
 手が伸び……る。
 眠れる彼女の胸元へと。
 
「さて、私の興味は今、この人のむ」
 
 竜也は手近な本を一冊つかんでぶん投げた。
 
 すこーん。
 と音がして、ルシナの首が後ろのほうにのけぞる。
 本は跳ね返って、後ろにある本の樹海へと衝突した。
「い、痛」
 ルシナが顔を上げると、修羅がいた。
 
「お前が男に生まれていたらなと今初めて思った」
 
「はい? な、何で」
「正式にセクハラ野郎として告訴できるからだ」
 そして拳を振り上げようとした。
 女子だろうが構わず、ルシナを殴ろうとした。
 
 しかしそれはできなかった。
 
 
「よ。何やってんのさ、人の研究室で」
 
 
「え――」
「……ッ」
 振り上げられた手を握り、竜也の動きを止めた人間が、いた。
 ルシナがその人物を見ようと顔を上げた時だった。
 
 轟音。
 
 先の、竜也が放り投げた本が激突したためだろうか。
 部屋中の本が雪崩のように降り注ぎ、部屋の中にいたすべての人間を飲み込んでいった。